「少女漫画における人気者とのロマンスについて」
2000年代以降、一気に増えたのではないかと思われる少女漫画のサブジャンルの一つに、
「地味でおとなしい少女が、積極的になったりおしゃれを覚えたりすることで、学校の人気者の男の子と付き合い、クラスに溶け込みながら青春を謳歌するという自己実現を果たす」
という物語の型がある。
例としては、以下の作品が挙げられる(カッコ内は連載開始年)。
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『君に届け』(2006)
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『キラキラ100パーセント』(2003)
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『パピヨン―花と蝶―』(2006)
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『ハニーレモンソーダ』(2016)
実は私は、少女漫画というジャンルを基本的に愛しているにもかかわらず、このサブジャンルだけはどうも感動できない。もちろん1990年代以前から、「平凡な女の子が学校の人気者と恋をする」という展開自体は少女漫画の王道であった。しかし、上記の作品群には、それまでの王道とは決定的に異なる点がいくつかある。
ここでは、水沢めぐみの『おしゃべりな時間割』(1994)を例に取り、同じ作者による『キラキラ100パーセント』と比較してみたい。
1:主人公の自己卑下
『キラキラ100パーセント』の主人公・みくは、自分のことを「目立たずかわいくない」と認識している。ギャル風のクラスメイトたちから投げつけられる「ダサい」「太い」といった容赦ない言葉や、「地味な女子扱い」によって、その自己認識はさらに強化されていく。
友人の助けを借りておしゃれを覚えることで、みくは少しずつ自信を得ていくが、人気者の渋谷と付き合い始めてからも、「自分は彼にふさわしくない」という劣等感は常につきまとう。
一方、『おしゃべりな時間割』の主人公・千花は、確かに内気な女の子ではあるものの、親しい友人たちと楽しそうに過ごしている。特定のライバルに対して引け目を感じる場面はあっても、自分自身を「陰キャ」といったレッテルで卑下する様子は見られない。そもそも当時はそのような言葉がなく、強いて言えば「ネクラ」が相当するのかもしれないが、作中でそう罵られることもない。
また、友人たちから「千花ちゃんはバラやヒマワリというより、小さくてふわっとしたカスミソウのイメージ」と言われ、それを素直に喜び、「本当にカスミソウが似合う女の子になりたいな」と夢想する場面からは、自己卑下とは程遠い、健全な自己肯定感が感じられる。
2:ヒーローは「個」ではなく「集団」を代表する存在
『おしゃべりな時間割』の時田には、佐野という同じく人気者の男友達がいる。どこか『ちびまる子ちゃん』の大野君と杉山君を思わせる人気コンビだ。しかし、千花が想い続けるのはあくまでも時田という「個人」であり、その気持ちは卒業後、簡単には会えなくなってからも変わらない。学校という集団と、彼の存在は明確に切り離されている。
これに対して『キラキラ100パーセント』では、みくがおしゃれになり渋谷と付き合うことで、クラスの華やかな女子たちと親しくなったり、学園祭の準備で積極的にクラスメイトと関わるようになったりと、集団内での立ち位置そのものが変化していく。ここでの渋谷は、単なる一男子ではなく、「学校」という社会における「キラキラ」を象徴する存在として描かれている。
人気者と一緒にいることで集団内での立場が変わる、というテーマ自体は『花より男子』(1992)でも描かれている。しかし同作では、その集団的な権力に屈することへの疑問や違和感も同時に提示されていた。一方、『キラキラ100パーセント』では、タイトル通り「集団の中でキラキラすること」は素晴らしいものとして描かれている。
みくの幼馴染・後藤が、そうした価値観に染まらず、外見も生き方も自己流を貫く存在としてさりげなく配置されている点には、作者なりの良心を感じなくもない。
3:ヒーローがつまらない
これが、私にとって最も大きな問題である。渋谷は、明るく、愛嬌があり、優しい。確かに「かっこいい男の子」の要素は一通り揃っている。しかし、みくがそこまで彼に惹かれる理由が、読んでいてどうにも伝わってこない。そのため、「結局は“人気者”というステータスが魅力なだけなのではないか」という疑問が拭えなくなる。
類似作品でも、このような没個性的で無難な男の子、あるいは神のように高みから主人公を救い上げる存在(例:『ハニーレモンソーダ』)が描かれることが多い。少女漫画なのだから、生々しい男子のリアリティがなくてもよいとは思うが、それでも「惹かれる理由」にある程度の説得力や人間味は欲しい。
『おしゃべりな時間割』の時田も、夢見る少女の視点で描かれた少年像ではある。しかし、主人公がクラス全員から疑われ非難されている場面で、「クラスメイトの言うことを信じようぜ!」と正面から問いかけ、たった一人で千花を庇ったエピソードは、現実味を残しつつ、彼の強い正義感とまっすぐさを強く印象づける。
この出来事が実話かどうかは分からないが、時田には実在のモデルがいるらしく、そのことが作品にどこか真実味を与えているのかもしれない。
ちなみに、私は1990年代後半にこの作品を読んで「こんなに真面目な男子がいるものだろうか」と思ったが、母は「昔はいたのよ、こういう芯のある男の子」と言っていた。作者の水沢めぐみは1963年生まれで、私よりは母の世代に近いため、体感として共有できる部分があるのかもしれない。
まとめ
以上を踏まえると、「地味でおとなしい少女が、積極的になり、おしゃれを覚え、人気者の男の子と付き合うことで学校に溶け込み、青春を謳歌するという自己実現を果たす」タイプの少女漫画は、「個と個」の心の触れ合いを深く描くよりも、集団の中での楽しさや立ち位置の変化に重点を置いている。そして、その集団主義的な価値観をほとんど無批判に、明るく肯定的に描いている点が、どうにも私には物足りなく感じられるのである。
※蛇足だが、私は幼少期から水沢めぐみ作品のファンで、どちらの作品もなんだかんだ言って最後までしっかりと楽しみながら読んだ。
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